﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rdf:RDF xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
	xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xml:lang="ja">
	<channel rdf:about="http://pyuadora.com/indexrss1.xml">
		<title>ぴゅあどら</title>
		<link>http://pyuadora.com/</link>
		<description>クルマを愛するすべての人へコラムを綴っています。</description>
		<dc:date>2009-08-03T01:00:00+09:00</dc:date>
		<dc:language>ja</dc:language>
		<items>
		<rdf:Seq>
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column793.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column792.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column791.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column790.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column789.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column788.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column787.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column786.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column785.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column784.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column783.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column782.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column781.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column780.htm" />
		<rdf:li rdf:resource="http://pyuadora.com/column/column779.htm" />
		</rdf:Seq>
		</items>
	</channel>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column793.htm">
		<title>#793 老頭児</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column793.htm</link>
		<description>謙虚に受け止められない人は、何歳になってもいるものです。高速ツアーバスの居眠り運転や無免許運転者による集団登校への突っ込み事故など、痛ましい交通事故がここ1ヶ月に続きました。その影で高齢ドライバーの事故も増加しています。……</description>
		<content:encoded>謙虚に受け止められない人は、何歳になってもいるものです。高速ツアーバスの居眠り運転や無免許運転者による集団登校への突っ込み事故など、痛ましい交通事故がここ1ヶ月に続きました。その影で高齢ドライバーの事故も増加しています。高速道を逆走してみたりブレーキとアクセルを踏み間違える運転は、一歩間違えればテロ行為です。しかも本人は、行為に対して罪の意識が薄かったりします。悪意をもって悪事をすることは罪深いことですが、悪意を一切持たずに悪事をすることもまた罪深いことです。どんな行為であろうと、行なった人間が責任をとるのは当然のことでしょう。ところが年をとれば往々にしてずるくなるもので、込み入った話になればとぼけるし、年齢を持ち出せばまだしっかりやれると言い、かといって責めればか弱い弱者を装う高齢者がいることも事実です。そうしていざ事故を起こしたり、起こさないまでも路上の障害物となって走り続けて若い人を邪魔することを社会的に容認していたら、この国はいずれ高齢者によって滅ぶやもしれません。トラブルは起きてからでは遅いのです。そのために、平時から自分がどんな状況にあるかをしっかり把握しておくことが大事です。もちろん年をとることは誰も避けられません。だからこそ、以下にあげる能力が低下をしていくことを本人も含め考えていく必要があります。視力低下 動体視力や夜間視力が衰えた状態で運転すれば、速度感覚は衰え識別も難しいでしょう。後続車に道を譲ったり日没後の運転は極力控えましょう。視野狭窄 まぶたが下がるため視野が狭くなります。見ているつもりでも実は見えていないということです。見えなくても信号や標識などは至る所にあるものと考えしつこいくらいに周囲をみるといいでしょう。判断の鈍化 判断して動作に至るまでの時間がかかるようになります。長年の運転歴をもってさらに一歩先の状況を早めに予測し、常に余裕を持って動作に移れるようにしましょう。集中力低下 集中力が落ち反応にばらつきが生じるといいます。こまめに休憩をはさむことで不要なトラブルを避けることができるでしょう。本来ならば、高齢者講習にパスできない人は免許更新できないようにすべきでしょうが、高齢者に優しく若い人に負担をかぶせたがるこの国ではそこまでの強制力を発揮しないでしょう。危なっかしいドライバーが闊歩しているのに野放しになっていては、誰だろうと安心して外出できません。事故を起こせば他人の人生までも変えてしまうものです。当事者には誰でもなり得ることで、高齢だから絶対にならないなんてことはないのです。平時のいまだからこそ、あらためて高齢者運転について考えてみてはいかがでしょうか。</content:encoded>
		<dc:date>2012-05-20T13:04:42+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column792.htm">
		<title>#792 車内収納術</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column792.htm</link>
		<description>たくさんのものがあるとき、多くの人は収納術に飛びつきます。私自身、収納術よりは不要なものを捨てたほうがよいと言ってしまう人間ですが、やむを得ず荷物を積む必要があるときに意識していることが4つあります。ラゲッジに入る最大量のコンテナボックスに全部収める。……</description>
		<content:encoded>たくさんのものがあるとき、多くの人は収納術に飛びつきます。私自身、収納術よりは不要なものを捨てたほうがよいと言ってしまう人間ですが、やむを得ず荷物を積む必要があるときに意識していることが4つあります。ラゲッジに入る最大量のコンテナボックスに全部収める。ものを用途ごとにまとめておく。再び取り出せる位置に収める。定期的に要らないものを見直す。最近はダッシュボードやシート下部など収納スペースをたくさん確保する車種も多くあります。しかし収納場所が複数あると、どちらにしまったか分からなくなってしまいます。「あれ？どっちだったかな？」と探す時間は、とくに急いでいるときほど避けたいものです。こうしたことから、探す場所をコンテナボックス1箇所に絞るといいと思います。しかしコンテナの中に一緒くたに入れてしまっては、ものを取り出す手間がかかります。収納術とはいえ収めることが主目的ではなく、すぐにまた使えることが大事です。軍手類、ドライバー、クロスレンチ、LEDライト、あるいは汚れてもいいタオル。こうした道具がかさばっておらず、いつでも取り出せるようにするといいでしょう。コンテナの中に仕切りを設けるとか、後部座席のヘッドレストにフックを引っかけ袋をつり下げられるようにしておくといいかもしれません。そして数ヶ月に1回ないし複数回は道具を見直し、要らないものを処分した方がいいでしょう。いくら収納術でものを収めたところで、物の総量が多ければ物に呑み込まれてしまうからです。これらは自動車内に限らず、職場や家庭内においても有効ではないかと思います。収納場所を限定し、その中で用途ごとに収めていくこと。そして収めることよりも再び使うことに主眼を置いて考えると、おのずと要不要の選別ができてくるのではないでしょうか。ずっと物を貯めておくことは大事かもしれませんが、使えない収納だったり不要物まで貯めてしまってはなんの収納だか分かりません。使いたい道具がすぐに取り出せる状況を維持し続けることが、もっと楽しい時間を生み出します。ただ仕舞っておくだけの状態から一歩踏み出しましょう！</content:encoded>
		<dc:date>2012-05-13T10:26:34+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column791.htm">
		<title>#791 まよい道</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column791.htm</link>
		<description>ナビを見ればルート通り。到着予想時刻も表示されているし、今走っている道の何を疑うのでしょうか？たぶん、今走っている道が最短なんだと思います。……</description>
		<content:encoded>ナビを見ればルート通り。到着予想時刻も表示されているし、今走っている道の何を疑うのでしょうか？たぶん、今走っている道が最短なんだと思います。しかし、今はそうかもしれません。数km先は大渋滞しているかもしれないし、天候不順による通行止めになっているかもしれません。そうなったときに機転が利かせられますか？言葉ではわかっていても、なかなか身動きがとれないものです。高速道路で渋滞したときのように、逃げたいときに思いどおりには逃げられないでしょう。大人になればなるほど、たくさんのしがらみや捨てられないものが増えていくものです。そんな状況下におかれたとき、あなたならどんな選択をとるでしょうか。動けないながらも近道を探しますか？今ある道をそのまま突き進むことを選びますか？それとも渋滞に巻き込まれたことに対して、激しい呪いの言葉を吐きますか？ことによっては、何もしないことも選択の一つでしょう。きっと正解はありません。もっと言えば、正解がないのが正解なのかもしれません。極端なことを言えば、法や倫理に触れないかぎりいろんな打開策が打てるということです。情報端末や友人からのアドバイスで近道を知ろうとするもいいし、じたばたしないでいま置かれた状況を精一杯楽しむことだっていいでしょう。きっと私なら、初めのうちは精一杯近道を探そうとします。でも、すぐに諦めるでしょう。一人でジタバタしても仕方ないのだから、その状況、手持ちの資金、道具からどんな手があるかいろいろ考え出して、最善と思われる策をかたっぱしから試みて、それでもダメならじっと待つと思います。もちろんこの方法も最善ではなく、例えば炎天下に置き去りにされたような場合なら体力を失わないようウロウロしない方法が最善だったりするので、一概にこうすればいいとは言いにくいのです。状況に応じてとるべき策が変わってくるものだと思います。したがって「これをしなければならない」だの「これこそが最良」といった、なかば決めつけた提言に頼ることはかえって危険です。それよりは失敗してもいいから、自分の信じた策をいろいろやってみて、その結果がどうなったかを自己分析することが大事かもしれません。むしろ失敗したときがチャンスです。なぜなら、結果に対して謙虚に受け止め対策を練ることができるからです。下手に成功してしまうと、私も含め多くの人はなぜ成功したのかを検証しないままラッキーで終わらせてしまうものです。たくさんトライして、たくさん失敗して、そして何か一つでも得るものがあれば十分に御の字です。一見、回り道かもしれませんが、たぶん、そうやって走っていく道が最短なのかもしれません。</content:encoded>
		<dc:date>2012-05-04T23:48:12+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column790.htm">
		<title>#790 幸点と沸点</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column790.htm</link>
		<description>人間には「幸点」と「沸点」があると言われています。幸点とは幸せを感じる点のこと。沸点とは怒り感じる点のことです。……</description>
		<content:encoded>人間には「幸点」と「沸点」があると言われています。幸点とは幸せを感じる点のこと。沸点とは怒り感じる点のことです。自分が感じた感情の強さをポイントで数値化したとして、平静時を０、喜怒哀楽関係なしに感情の強さを正数で表すものとします。感じ方は人それぞれで、どこまで感じれば喜ぶとか怒り出すなんてことは千差万別です。ちょっとしたことで喜ぶ人もいれば、相当強く感じなければ怒らないという人もいるでしょう。幸点と沸点も同じです。ちょっとしたことで幸せを感じることができる人がいれば、たくさん感動を味わわないと幸せを感じられない人もいます。沸点も同様、怒り出すまでに感じる感情の強さは人それぞれです。どちらが良くてどちらが悪いかという話ではありません。ただ生きていく上では、幸点は低く沸点は高いほうが都合がいいのではないかと思います。では、幸点と沸点を変えていくにはどうしたらいいのでしょうか。幸点を下げるには、何かにつけ「自分は幸せだ」と口に出すといい、といわれています。思うだけでなく実際に声に発することで、心自身が幸点をより下げるように変わっていくようです。そして沸点は、幸点が下がれば自動的に上がっていくのだといいます。ひらたく言えば、本当に小さな事柄からも幸せを見いだして、きちんと声に出すと言うことです。運転も一緒です。道を譲ったらありがとうと挨拶されたとか運良く赤信号にひっかからなかったとか、そんなささいなことで幸せを感じるだけでも楽しいです。急に割り込まれたとか少しぐらい渋滞にはまったからと言って怒っていても何が変わるわけでもなし、むしろ心の狭さを露呈させてより惨めな思いをするだけです。ささいなことに幸せを感じてちょっとしたことでも怒り出さないことで、不必要に心を揺さぶられることなく済みます。どうせ走るのなら、幸せな道を走りたいものです。お金を使わなくてもアクセルペダルを踏み込まなくても、考え方を変えていけばおのずと幸せな道を走って行くことができるものではないでしょうか。</content:encoded>
		<dc:date>2012-04-29T01:09:15+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column789.htm">
		<title>#789 0を1にできる人</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column789.htm</link>
		<description>傷をつけないでいることは、まず不可能です。ただ走っているだけでも、静電気によって泥やほこりがつきますし、走れば小石が飛んできてボディやガラスにキズがついてしまいます。……</description>
		<content:encoded>傷をつけないでいることは、まず不可能です。ただ走っているだけでも、静電気によって泥やほこりがつきますし、走れば小石が飛んできてボディやガラスにキズがついてしまいます。当初の状態のまま傷をつけたくないのならば、ガレージの中に永久に閉じ込めておけばいいのです。でも、それだといずれ走れなくなります。いくらベストコンディションを保っているつもりでも、バッテリーはあがり、ゴムは劣化し、オイルの油膜は切れてしまうでしょう。人間も同じです。意識的に休みをとることは大切ですが、何もせず無為に時間が過ぎれば動き出すことすら叶わなくなります。時代が時代ですから、未来という名の「道路」そのものが無い人もたくさんいます。でも「道」なら、たくさんあります。あぜ道、裏道、獣道。舗装された道路ばかりが道ではないし、あなたの走りやすい道を走ることに他人の目を意識する理由はありません。でも、そんな道でも走れますし、動いていることには変わりありません。スピードが1か100かの違いこそあれ、どんな道であろうと前には進んでいけます。しかし全く進んでいないと、進むことにすら躊躇します。進むことで余計に傷つくし、何より時間や心をすり減らすことを恐れてしまうものです。1を100にするよりも、0を1にすることのほうが何倍も難しいのです。速い人は遅い人を笑うかもしれません。しかし、動いたことのない人は遅い人を笑うことはできません。速かろうと遅かろうと、動いたことのない人から見れば「動き出している」こと自体がすごいのです。動き出しているか否か、この差は非常に大きいです。とりあえず動き出しましょう。ずっと震えたまま動かなければ何も変わりませんが、小さな一歩を踏み出してみることで新しい未来が拓けてくる可能性があります。それが積もれば将来、動き出さなかった人との差は埋められないほど大きな差として現れてくるはずです。</content:encoded>
		<dc:date>2012-04-22T01:31:44+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column788.htm">
		<title>#788 迷わないための道しるべ</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column788.htm</link>
		<description>迷うのは、自我が強くですぎているときかもしれません。あそこに行きたい。そこにも行きたい。……</description>
		<content:encoded>迷うのは、自我が強くですぎているときかもしれません。あそこに行きたい。そこにも行きたい。でも、ここは通りたくない。どこにも行き場がない。気持ちはわかります。苦しみは味わいたくないけれど快楽は得たいのは、私も含めた動物すべての本能だと思いますから。いつ抜けるのかもわからない渋滞や、全く舗装のされていない夜の林道。自分の横幅ギリギリの細い道だって走らなければいけないときもたくさんあるでしょう。ここで自分のことだけを考えてしまうと、突然すべての道がふさがれたように感じてしまいます。誰も助けてくれない、自分だけが被害者、そして現実の厳しさに足がガクガク震えだしそうな感覚にとらわれるでしょう。私も仕事やプライベートで何回もこうした問題にぶち当たりました。今も模索中ですし、これから何度でもぶち当たるでしょう。最適解かどうかはわかりませんが、一つだけわかったことがあります。自分のために動こうとすると、後で余計に追い込まれるのです。そう考えたとき、自我が強すぎるとそれに縛られてしまうものだなと思ったのです。誰かのために動けば、そこまで迷わずに済むのかもしれません。極限状態に追い込まれたとき自分のために動いていると悲しくなりますが、誰かのために頑張れば後で報われることが多くなります。極端な話、誰かに「ありがとう」と言ってもらえるかです。私もそうですが、こうした迷いに陥っているときはなかなか発想が切り替えられないものです。頭でわかっていても心が納得していないので、堂々巡りに陥ってしまいがちです。自分が捨てられない、というか無意識のうちに何かに執着してしまっているのです。悲しいかな、その執着が何なのかも本人には理解しきれていないことも多いのです。こうしたときに対処しきれずに悩んでいる人達はたくさんいます。とりあえず、悩んでも解法が見つかるわけではありません。迷ったら一度、その場で寝てしまいましょう。脳がアクセルとブレーキを両方かけているような状態ですから、脳を休ませてあげるといいのかもしれません。もちろん専門家ではないのでこれが最善かと言われればそうではないはずですが、しないよりはマシなはずです。そして苦しいかもしれませんが、誰かのために動いてみましょう。誰かのために働くでもいいし、誰かのために時間を差し出すのでもいいです。自分を忘れることは、イコール死ではありません。これからもずっと生きていけるのです。そもそも現世に生まれてきたことすら奇跡なのですから、今生きているだけで感謝です。迷ったら一度休んで、そして自分ではなく、自分が活動することで喜んでくれる誰かのため動くことに意識をシフトしたほうがいいのでしょう。環境を1日2日で変えられるものではありませんが、それに比べれば自分の意識を変えることはたやすいものです。迷い道から抜け出せるよう、一緒に頑張りましょう。</content:encoded>
		<dc:date>2012-04-14T21:04:21+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column787.htm">
		<title>#787 kkd</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column787.htm</link>
		<description>ソフトウェア開発などものづくりの各現場で見積もりを算出する際に、まま言われるのは「KKD」です。KKDとは「勘経験度胸」をいい、つまり過去の事例を主な基準として進めていくことをいいます。一部では「根性根性ど根性」と揶揄されることもあるようです。……</description>
		<content:encoded>ソフトウェア開発などものづくりの各現場で見積もりを算出する際に、まま言われるのは「KKD」です。KKDとは「勘経験度胸」をいい、つまり過去の事例を主な基準として進めていくことをいいます。一部では「根性根性ど根性」と揶揄されることもあるようです。およそ非科学的で属人的なこの方法ですが、時間もお金もない現場ではこれで乗り切れたりするので、完全に否定する理由もありません。しかしKKDは人の経験に大きく依存する要素が多く、また本質的な問題を見落としてしまうこともあります。まともに考えれば、KKDだけでなくデータや標準化された手順を併用しながら論理的にも考えましょうということになるかと思います。しかし、KKDでやってこられた人からすれば、理論ではわかっていても、やっぱりKKD頼みになってしまいがちです。あえて、KKDを貫いてみてはいかがでしょうか？勘と経験でわかる領域まで身につけた方なら、あとは度胸で勝負してもありだと思います。クルマの運転も似たところはあって、クラッチのうまいつなぎポイントとか渋滞しそうな予感なんて言うのはうまく言語化できないものです。そのあたりは経験によるところが大きく、概して初心者ドライバーやペーパードライバーと熟練ドライバーとでは大きく差が出ます。それだけの経験値があることを大きな強みとしてKKDを貫くのも、一つのやり方です。</content:encoded>
		<dc:date>2012-04-08T01:10:57+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column786.htm">
		<title>#786 脳内物質</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column786.htm</link>
		<description>人間の心は分泌される脳内物質に大きく左右されるようです。……</description>
		<content:encoded>人間の心は分泌される脳内物質に大きく左右されるようです。気合いを入れればドーパミンが、朝日を浴びるとセロトニンが、それぞれ分泌されるといわれています。また同じ動作を繰り返していくと次第に苦痛を感じるものですが、苦痛を抑制するためにGABAが分泌されます。さらにGABAが分泌されるとGABAの分泌を抑制するため、βエンドルフィンが分泌されます。つまり、単純だったりリズム感のある作業を繰り返し続けると、陶酔状態（ハイ）になるといわれています。ところで、前出のGABAは苦痛だけでなく怒りを感じた時にも分泌されます。しかし、GABAが分泌されても20秒間は効果が出ません。感情の抑制に自信が無い人はその20秒間に怒りにまかせて感情をぶちまけてしまい、あとで取り返しのつかない事態に陥りがちです。相手の話も聞き入れず一方的になじったり、口論を起こして不毛な争いを生んだり他人を傷つけてしまったり等々。その場の勢いで乗り切ったつもりでも、まったく非生産的でマイナスしか生み出さなかったと激しく後悔するのがオチです。私自身もあまり褒められたものではなく、何回かやらかしてしまいました。よく考えれば、運転中でも同じシーンはいくつもありませんか？ちょっと横から割り込まれた。ちょっと後ろから煽られた。ちょっと速いクルマに勝負を挑みたくなった。こと年度が切り替わる時期には、地域に不慣れで遅い車両や工事渋滞にもイライラしがちです。しかしよく考えてみれば、別に接触されたわけでも追突されたわけでもなく、ただ心理的にムッときただけのことです。ここでひとまず、20秒間だけ堪えてみましょう。20秒は短いようで意外と長いです。時速60kmなら約333m、時速100kmなら約556mの距離を走る時間です。20秒我慢すれば感情は抑制され、早まった行動を避けることができるでしょう。不必要なトラブルを避けるために、20秒間だけ待ってみましょう。</content:encoded>
		<dc:date>2012-04-01T01:02:03+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column785.htm">
		<title>#785 真白な闇</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column785.htm</link>
		<description>寒暖差の激しい季節には、ときどき濃霧が発生します。深夜の濃霧はもちろんですが、早朝の濃霧もまた見えにくく、走行するには厳しい状況です。数m先の視界が確認できないこともあるし、遠くまで見渡せるはずのハイビームは乱反射して使えません。……</description>
		<content:encoded>寒暖差の激しい季節には、ときどき濃霧が発生します。深夜の濃霧はもちろんですが、早朝の濃霧もまた見えにくく、走行するには厳しい状況です。数m先の視界が確認できないこともあるし、遠くまで見渡せるはずのハイビームは乱反射して使えません。濃霧は、真っ白な闇です。光が見えにくいので、街灯のない深夜よりもたちが悪いです。先が見えないことは、とても怖いことです。そうなると、私たちがとる選択肢としては2つあります。一つは危機を回避すべく、気温が上昇するまでじっと待つこと。もう一つは、危機を受け入れながらも少しずつ進んでいくこと。どちらも正解だと思います。ただし、絶対に危機を回避する必要があれば前者をとるでしょうし、進行度合いを重視するならば後者をとるでしょう。その人の置かれている状況や持っている時間、お金、あるいは持ちものによって対応策は変わるはずです。ですから、いつ晴れるかわからないまま待つのも一策。勢いに任せて遮二無二進むも、また一策です。先が見えないからこそワクワクもまた待っているものです。世の中にさまざまな恐怖は数多くあります。しかし、死以上の恐怖はありません。生きてさえいれば再出発することもできます。何を選ぶかは自由です。恐怖心から選択肢を決めるより、選ばないことで後悔しないかを基準に選んだほうが、あとあと満足のいく結果が得られるものかと思います。</content:encoded>
		<dc:date>2012-03-24T23:56:19+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column784.htm">
		<title>#784 通過算</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column784.htm</link>
		<description>追い越しにかかる時間は、いったい何秒かかるでしょうか？例えば片側2車線以上ある高速道路を走っていて、先行する時速80kmのクルマを時速100kmで追い越す場合、いったい何秒かかるでしょうか？先行車をA、追い越すクルマをBと考え、AとBそれぞれの全長を5mと考えます。……</description>
		<content:encoded>追い越しにかかる時間は、いったい何秒かかるでしょうか？例えば片側2車線以上ある高速道路を走っていて、先行する時速80kmのクルマを時速100kmで追い越す場合、いったい何秒かかるでしょうか？先行車をA、追い越すクルマをBと考え、AとBそれぞれの全長を5mと考えます。また、追越開始と追越終了時はそれぞれ50mの車間距離をとるものとします。詳しい計算式は追記で後述しますが、約20秒かかります。しかしながら実際の高速道路上では、車間距離が50mもなかったり時速100km超で走るクルマも少なからずいますので、もっと短時間で追い越しが完了する場合がほとんどだと思います。この計算は、相応の速度差があればわずかな時間で立ち位置が変わってしまうことを意味しています。悲観的にとらえれば、追い越されるのはあっという間ということになります。しかし楽観的にとらえれば、勢いがあれば追い越すのもあっという間、と考えられます。追い越されるには理由があります。そして追い越すにも理由はあるのです。なかにはエンジンの調子が悪い、道路のコンディションが良くないといった外的要因を理由に挙げる人がいます。本当にそうでしょうか？どんな言い訳はあるにせよ、追い越せた、あるいは追い越された原因を自分のなかから探して改善する必要があるでしょう。自分の希望的観測ばかり追いかけて真因から目を背けているようでは、未来永劫追い越され続けるのみです。追い越され続けてもマイペースを貫く姿勢もありですが、そこに需要はありません。なぜ人は、お金を払ってまで鈍行よりも特急や新幹線に乗るのかという話です。</content:encoded>
		<dc:date>2012-03-18T13:35:48+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column783.htm">
		<title>#783 311</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column783.htm</link>
		<description>東日本大震災から1年経ちました。あの日、私は福島県白河市内で事務作業をしていました。そこに突然の緊急地震速報が鳴り響きました。……</description>
		<content:encoded>東日本大震災から1年経ちました。あの日、私は福島県白河市内で事務作業をしていました。そこに突然の緊急地震速報が鳴り響きました。じき何もできないまま震度6強の激しい縦揺れが市内全域を襲いました。机の中にあわてて身を隠すも揺れは1分以上続き、至る所からガラスの割れる音が聞こえてきます。館内に響く悲鳴。容赦なく床に打ち付けられる落下物の破壊音。街全体に響き渡る低いうなり声のような振動音。そろそろ収まってもいい頃と思ったのもつかの間、更に強い縦揺れがおそってきました。例えるならダートコースに全速力で突っ込んだような激しい縦揺れ。いつ建物が崩壊するかわからない恐怖にかられました。正直、死を意識しました。自分はここで圧死するんだ、と。何もできないまま、死を意識する数分間。もしかしたら実際の時間は1～2分だったかもしれませんが、その時間が半永久的に続くかのような錯覚にとらわれました。しばらくして揺れが収まり、立ち上がることができました。そのときの私の思いは、ただただ「僥倖」の二文字でした。揺れが静まって建物の外に出れば、すべての活動がストップしていました。携帯電話でやっとつながったYahoo!Japanのサイトを見れば、宮城県栗原市で震度7を記録したとのこと。その後市内に出てみれば、同じ市内でありながら全く見たことのない様相が繰り広げられていました。道路を埋め尽くすたくさんの自動車。明かりの消えた信号機。停電で出られなくなったコイン駐車場入り口には、ゲートバーがねじ曲げられています。そこかしこから救急車両のサイレン音が聞こえ、コンビニではすべての陳列棚から商品が散乱。城跡まで歩いてみれば、堅牢に組み上げられていた石垣が広い範囲で崩落していました。ただならぬ状況をカメラに収めつつ、幸いにして無事だった自分のクルマに乗り込み帰途につきました。しかし当然、帰り道もひどい状況でした。幹線道路にかかる橋は壊れ、水道管を埋設した道路は陥没したか路上1m程度まで持ち上がっていました。行き場の無くなったクルマ達が普段誰も通らないような農免道路にまで押し寄せ、田畑しか隣接しない田舎道で大渋滞が起こっていました。その後、地域全体で停電、断水、食糧不足が発生。ひどい地域では3週間近く給水を余儀なくされました。ことガソリン不足は深刻で、たった数リッター給油するのに早朝未明の寒いときから並ぶ状況でした。同時に首都圏ドライバーがガソリンを買いだめしていく報道を聞きながら、苦々しく感じることもしばしばありました。そこに加えて発生した福島第一原子力発電所事故。3月15日から数日間、市内からクルマや人の姿が一切消えてしまいました。30万人規模の都市ですら、ゴーストタウンと化していました。あれから1年。観光や物産はいまだ低空飛行を続け、沿岸部の警戒区域内では行方不明者の捜索すらも終わっていない福島県内ですが少しずつ復興は進んでいます。むしろ原発事故が暗い影を落としていて、少なくとも30,000人以上が県外へ避難してしまいました。そして、東電は福島県内の会津と県南地方を除いた一部地域しか賠償しないなどと表明し、あいかわらずの独善姿勢を打ち出しています。自宅に東電から1通の封書が届きましたが、「誠意をもって迅速かつ公正に対応してまいる所存」と謳われた書面が同封されていました。ここ1年で誠意のなさが知れ渡った今となっては、こんなに薄っぺらい言葉など何のうれしさも感じません。賠償額も成人一人に対し8万円という根拠のわからない金額で、なぜか福島県の一部地域のみが対象というまったく誠意の感じられない内容です。国や大企業すらも不誠実きわまりないことが世間に明るみに出て多くの人に見限られてしまったことも、この1年で大きく変化したことではないでしょうか。嘘ばかり垂れ流す国と東電。原発西方60kmの郡山市まで逃げ出していた原子力保安院。支援物資も持ってこずに被災地上空をブンブン飛び回っていただけの報道機関。東電で作られた電気の恩恵を受けながら、福島県のことは福島県内で片付けろという関東在住者。「絆」という言葉を聞いても、当時の状況を思い出すたびブラックジョークにしか聞こえません。震災からちょうど1年の今日は各メディアで報道特番が組まれていますが、どこも美辞麗句ばかりでうんざりです。瓦礫などは最終的に福島で処理するしか無いとは思いますが、他人事すぎる姿勢に「絆」の言葉が嘘に聞こえて仕方ありません。それでも、光明はありました。ボランティアで被災地入りした方々、原発周辺で作業されている方々、自衛隊の方々、海外から支援をしてくださった方々。そして地域再興に取り組むたくさんの方々がいることが福島にとって大きな財産なのだ、とあらためて気づかされました。幸い、今年の311は大きな災害もなく終わろうとしていますが、いつどの地域で災害が起こるかわかりません。この震災を感動ストーリーで終わらせずに、震災対策には何が必要なのか、どう対策しなければならないのかを考え、ぜひ行動を起こしてください。救いの手を差し伸べるのが人間であれば、我欲に走るのもまた人間だと言うことです。</content:encoded>
		<dc:date>2012-03-11T23:53:34+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column782.htm">
		<title>#782 若葉マークの君へ</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column782.htm</link>
		<description>時節柄、教習車や若葉マークの車両が多く走っています。教習車のみなさまは、免許取得まであと少しです。そして初心者のみなさまは、運転免許取得おめでとうございます。……</description>
		<content:encoded>時節柄、教習車や若葉マークの車両が多く走っています。教習車のみなさまは、免許取得まであと少しです。そして初心者のみなさまは、運転免許取得おめでとうございます。新しい道を走り始めたことと思いますが、たくさんの先輩ドライバーと同じ道を走る必要は無いと思います。みんなと同じ道を走るのは昭和の価値観でしかなく、それが正解とは言えないのが今、そしてこれからの走り方になるでしょう。法規にのっとる必要はありますが、枠にとらわれない走りができる時代になったともいえます。諸先輩のほとんどはあなたがた若葉マークの人間に好意的かもしれませんが、一定数以上の困った先輩方がいることも事実です。先輩の知らない裏道を走れば、謙虚に聞かず、また未知なるものを分析もせず全否定してみたり。自分たちの運転に非があっても認めず、後輩のせいにしたり話題をそらしたり逆ギレしたり。少し運転を誤ったりしただけで「あなたがダメだったのは頑張りが足りなかったから」と平気で自己責任論を押しつけてみたり。かの孔子が不惑だの耳順だのと説いた年齢になってもなお、そうした幼い先輩方は多くいます。先輩方にいわせれば、自分たちがかつて築いてきたから今があるのだと仰います。そうでしょうか？先輩方のさらに先輩、つまり終戦時に成人していた世代が焼け野原の何も無い状態から築き上げてきたのではないですか？国内の道路とて古くは律令時代からあったもので、まったくのゼロから道路構想を打ち出した事例は、実は思ったよりも少ないのかもしれません。そもそも先輩方の多くは終戦の1945年時点に未成年、もしくは生まれてもいなかった方が多いのです。幼児や小学生がインフラを築く強制労働にかり出されたのでしょうか？そう考えると、築き上げたのでは無く築き上げてもらった状態にうまく乗ってこれただけ、というのが正しい見方かもしれません。うまく乗れた時代と今の時代は、背景が全く異なります。先輩方は過去の輝かしい成功体験を語ってはくれますが、価値観が古すぎて精神論ばかりに終始しがちです。頑張れだけで結果が出るなら、今のこの国の現状を説明できません。きっと先輩方の成功体験は、これからの時代には役に立たないでしょう。ここまで書いて誤解をして欲しくないのですが、先輩方の話を聞かなくていいということではありません。あくまでも一定数以上の困った先輩方がいるという事例を述べたに過ぎません。アドバイスを聞きながら自分にできることを吟味し取捨選択していくことでたくさんの道に気づくことができる、ということです。どんな道を走っても、きっとあなたの役に立つでしょう。大丈夫。間違いではありません。自信を持って走ってください。</content:encoded>
		<dc:date>2012-03-03T23:32:02+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column781.htm">
		<title>#781 ハンデ</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column781.htm</link>
		<description>ハンデに逃げてはいけません。生きていくうえでさまざまなハンデを負い続ける人は確かにいます。そうした人達を制度や金銭等で支援していく社会は必要だと思いますが、過剰な支援をするのもどうかと思います。……</description>
		<content:encoded>ハンデに逃げてはいけません。生きていくうえでさまざまなハンデを負い続ける人は確かにいます。そうした人達を制度や金銭等で支援していく社会は必要だと思いますが、過剰な支援をするのもどうかと思います。世の中を見ると、女性専用車両が用意されたり身体障害者輸送車は税が減免されたりしています。うがった見方をすれば女性や身体障害者をハンデと決めつけているようなものと思うのですが、決めつけるなと憤る人を私は見たことがありません。ということは、ハンデを受ける人達は受けて当然の権利だと考えているのでしょう。また、ハンデは自己主張するものでもありません。ハンデをつけて欲しい人は会話をするとわかります。聞いてもいないのに冒頭で「私は女です」とか「私は障がいを持っています」と枕詞をつけて話します。しかし、性別とか身障者かなんていうのは相手からすれば何ら関係の無いことで、わざわざ宣言することではありません。つまらない予防線を張る人は、本当は表舞台に立ってはいけない人です。公道を走ると新人からベテラン、老若男女、いろいろなドライバーが走っています。若葉マークやシルバーマークをつけているくらいの違いはありますが、確実に言えることは誰に対しても道路交通法遵守が義務づけられているということです。新人だから許してあげよう。女性だから許してあげよう。高齢者だから……、身障者だから……。そうしてハンデを盾に許しを請うような人が事故を起こしたら、被害者はどうすればいいのでしょう。最悪の場合、被害者側は死者が出たのに加害者側は無罪放免となるやもしれません。こんなことは、まったく理にかなっていません。冒頭でも書きましたが、ハンデにはある程度支援が必要だとは思います。しかし、ハンデを受けることが前提と考えるのは大きな勘違いです。マイナスのスタートだからとりあえずゼロであればいい、ではないのです。スタートがどこだろうと人並みにプラスの状態まで持って行けていないのならば、まずはそこから改善する必要があるでしょう。ハンデだのなんだのと、いちいち自分の状況を言い訳しないことです。言い訳すれば、人間はその心地よさから死ぬまで言い訳を続けます。そういう人は死ぬまで「みそっかす」のままつまらない人生を送っていくでしょう。処世術に長けてもプロとして認識されない生き方を、あなたはしたいですか？</content:encoded>
		<dc:date>2012-02-26T21:59:23+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column780.htm">
		<title>#780 2項道路</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column780.htm</link>
		<description>古い住宅地などには自動車1台分の幅しか無いような狭い道があったりします。そんな狭い道なのに、場所によっては不規則に道路幅が広くなったりしてクルマがすれ違える空間があったりします。こうした道路は「2項道路」と呼ばれます。……</description>
		<content:encoded>古い住宅地などには自動車1台分の幅しか無いような狭い道があったりします。そんな狭い道なのに、場所によっては不規則に道路幅が広くなったりしてクルマがすれ違える空間があったりします。こうした道路は「2項道路」と呼ばれます。建築基準法上では本来、建物の敷地には道路幅が4m以上ある道路が接していなければいけません。なぜ4mかと考えると、4mあれば車両がすれ違えるからです。消防車両含め通常の車両であれば車幅は2m以下ですから、4mあれば違法駐車さえ無ければ問題なくすれ違えます。ところが建築基準法が制定された昭和25年時点では、多くの道路が4m未満でした。そこでそうした道路も将来的に4m以上幅員の道路に整備するものとして、ひとまず建築基準法上では道路とみなすことにしたのです。「2項」とあるのは、この例外条項が建築基準法第42条第2項であることからつけられました。これらの道は今は狭いかもしれませんがいずれ広くなる可能性を秘めている、ということです。今は路地でもいずれはたくさんの人が行き交うメインストリートになりえることだってあるのです。私たちも同様です。2項道路の拡張にはセットバックが必要で、すなわちたくさんの土地の所有者の協力が必要です。セットバックとは、2項道路に面している敷地を道路になる分だけちょうだいね、ということです。敷地が減るから、協力してくれない所有者も多くいます。2項道路をあなた、2項道路に面する敷地それぞれの所有者をあなたの協力者達と考えてみます。幅を広げるにはたくさんの協力者の協力があって初めて成り立つ構図という意味では、一緒です。現状を貫けば協力者と関わらない一方で、道路としてみなされても隘路なので衰退するのみでしょう。しかしもしたくさんの人の協力を得られてあなたの存在意義が変わってきたら、新しい未来が拓けてくるかもしれません。どちらが正解と言うことはないと思います。幸いなことに、私たちは道路ではなく自分で未来を選択することができます。自分が思うままの道を選ぶといいでしょう。今は狭い道でも、かならずどこかで広い道につながっていくものです。</content:encoded>
		<dc:date>2012-02-19T23:25:42+09:00</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://pyuadora.com/column/column779.htm">
		<title>#779 老いては子に従え</title>
		<link>http://pyuadora.com/column/column779.htm</link>
		<description>高齢化社会と呼ばれ久しいです。日本国の総人口1億2,806万人のうち、高齢者（65歳以上）人口は2,958万人います。（平成22年10月1日現在）平成23年版　高齢社会白書（概要版）……</description>
		<content:encoded>高齢化社会と呼ばれ久しいです。日本国の総人口1億2,806万人のうち、高齢者（65歳以上）人口は2,958万人います。（平成22年10月1日現在）平成23年版　高齢社会白書（概要版）だんだん主流派になる高齢者に、国や制度はとても優しいです。高齢運転者標識（高齢者マーク）表示は義務ではなく罰則のない努力義務です。高齢に伴う免許返納に、強制力はありません。いくら体が衰えようともゴールド免許でさえあれば、高齢者ではないドライバー同様に5年間有効です。票を投じてくれやすい高齢者にずいぶんと甘い政策ばかりを実行する我が国は、いずれ高齢者とともに沈んでいくでしょう。確かに高齢運転者による交通事故件数は年々増え続けています。平成23年版　高齢社会白書（概要版）近年起きている逆走事故を見ていると、ベテランドライバーが引き起こす事故件数には無視できないものがあります。Wikipedia加齢に伴う動体視力の低下や垂直視野の狭窄は確かに仕方ないことですが、高齢者には次のような特徴も見受けられます。自分の運動能力や運転技量を過信する。反射神経の衰えや一方通行での逆走に気付かない。アクセルとブレーキを踏み間違える危険行為をおかしがち。「私は大丈夫」などといって謙虚にアドバイスを聞き入れられない。こうした、自分の状態が良く認識できていないままステアを握るドライバーが高齢者に多くいるという事実です。すべての高齢者がどうだという決めつけはできませんが、高齢者の運転に対し目に余る思いをした人は多くいるのではないかと想像します。少なくとも私はその一人です。高齢者が未来ある若者を殺してしまっては遅いのです。とはいえ、闇雲に高齢者から免許を剥奪してよいものではありません。デマンド交通しかし同時に高齢運転者標識の義務化や、免許更新の厳格化はもちろん行なっていただきたいものです。それだけでなく高齢者の方には、老いの自覚と運転免許返納の勇気を持っていただきたいのです。こう書くと「高齢者いじめだ」と仰る方もいるでしょう。しかし考えていただきたいのです。あなた方の衰えが他人の時間や命までも奪いかねないのです。遅い走行速度は渋滞を引き起こし、後続車両の時間を奪っていきます。交差点で一時停止や左右の安全確認をせず運転し、歩行者の命が奪われた事故がどれだけあったでしょうか。自動車という場合によっては凶器となる物を「うっかり」ミスで運転してしまわれては困るのです。誰しもがいずれは老いるとはいえ、傍若無人に振る舞って良い理屈にはなりません。高齢者の皆さんはもっと若人の規範となるような運転を見せつけて欲しいのです。もちろん運転だけではありません。仕事や生き方、そして考え方も常に私たちのような若輩者に教え諭せるよう振る舞っていただきたいのです。それが叶わないのであれば、さっと後進に道を譲ってください。「老いては子に従え」という言葉があります。しがみつかずに潔く身を退くこともまた大事な生き方だと思うのですが、いかがでしょうか？</content:encoded>
		<dc:date>2012-02-12T22:17:50+09:00</dc:date>
	</item>
		<content:encoded>ときに順序を勘違いしてしまうものです。福がくるから笑うのではなく、笑うからこそ福がきます。心に余裕があるから他人に優しくできるのではなく、他人に優しくするからこそ心に余裕が生まれます。見渡せば、自分のみが満たされることを優先させてしまう人が多くいます。お金でも時間でも、自分が「持つ側」にいれば自分の思いを実行しやすいと考えがちです。だから「持たない側」にいる自分は、なかなか状況を打破する行動を起こしにくいと思えてしまいます。それは半分正解で半分間違いです。持つ側にいればこそ独占したいし既得権益にしがみつきたがるものです。持たなければ持っていないなりに知恵を絞って起死回生の策を繰り出したりもします。持つことに惑わされず、また持たないことに嘆かなければ、何らかの妙手がうてるものです。どんなに高価なクルマに乗っていても、どんなに美しいクルマに乗っていても、乗る人がそれなりならそのクルマもそれなりなのです。物や状態で自分を満たす前に、相手をまず満たしましょう。自分が満たされるのは相手のおこぼれで充分、というくらいの意識でいいです。そうしたほうが、トータルで幸せの量が大きくなります。損して得取れ、とはよく言ったものです。えてして幸せは、後で得るほど見返りが大きくなるものです。</content:encoded>
		<content:encoded>たまには、運について書いてみたいと思います。運も実力のうち、とはよくいったものです。実力以外の見えない力が偶然加勢してくれた時に、こう語る人は多いでしょう。さまざまな考え方があると思いますが、私も同意見です。運ばかり良くても実力が伴わなければ、徐々に凋落していくでしょう。逆もまたしかりで、実力があっても他人がそれを知る環境になければ、思い通りに事が進みにくいでしょう。実力だけでなく運の善し悪しも、広義的にとらえれば「あなたの実力」と考えられるのだと思います。そして実力は増やすことができますが、運もまた増やすことができるものとも思います。運は偶然起きたラッキーだけでなく、あなたがたぐり寄せた結果もまた運と考えていいのかもしれません。例えば、人と人をつないだとか、日頃の行ないに感心して他人が手を差し伸べてくれたとか。あなたのとった行動によって、他人が何らかの形で少しでも支援をしてくれたら、それも運です。運には総量が決まっているなんて話をする人もいますが、行動によって運を増やすことも減らすこともできると思います。こういうと減らすことを恐れて何もしない人がいます。しかし経験則から言えば、行動することで出会いや新しい考え方に触れることができるので運を増やしていけるような気がします。増やせないまでも少なくとも運の減少量を抑えられる、とは思います。自身できっちり検証しきれたわけではありませんが、顧みると行動することで新しい展開が生まれた記憶が多いのです。運転していると、自分はラッキーの連続なのかもしれないと思うことがあります。免許を取得して15年、総走行距離は約22万km。その間、小さく擦ったりしたことはありますが、人身事故や物損事故を起こしたことはただの一度もありません。これを誇りたいわけではなく、純粋に事故に遭わない幸運が続いただけと考えています。私だけでなくあなたも、たまたま調子がいいだけなのかもしれません。当たり前の明日がくるとは限らないように、調子の良さが永遠に続くとも限りません。毎日を運だけに頼らず、実力もつけていくこと。そうすることで、新しい運があなたに味方してくれるものなのかもしれません。</content:encoded>
		<content:encoded>論語の一節に「子曰。性相近也。習相遠也。」という言葉があります。性（せい）とは、人間が生まれながらもっている性質のこと。習（ならい）とは、生きている間の習慣や教育のことです。上記の意味は、人間が生まれながらもつ性質は大差ないがその後の習慣や教育で大きく異なってくる、という意味です。先天的な疾病を患っているとか親がとんでもなく裕福な資産家でもなければ、日本国内のほとんどの人間はほぼ同じスタートラインから始まっています。いわば機会平等です。しかしながら、運転免許を手にした人すべてが素晴らしい運転技術を身につけるわけではありません。一生ペーパードライバーの人もいるでしょう。免許入手で終了するわけでなく入手してからどういうふうに過ごせるかが、ドライバーとして大事なことかもしれません。交通安全講習会運転に限りませんが、毎日練習して徹底的に基本をマスターすることでしか何事も上達しないものだと思います。とはいえ、一生懸命やったからといって結果が伴わなければあまり意味はありません。仕事や学業でいくら努力したと主張しても、それが実績や点数に結びつかなければ誰も耳を貸してくれないのです。もし努力するのなら段取りをよく考えて、なるべく早いうちに一定の結果を出せる行動をとると良いでしょう。機会は平等です。あとは努力の方向性と量を間違えなければ、たいていのことは達成できるものです。大事なことは、そういう習慣や教育を身につけていけるかです。</content:encoded>
		<content:encoded>常に新しいギアへシフトできるよう、意識しておきましょう。エンジンに限界回転数があるように、人間にも「これ以上頑張っても無理」な状態はあります。どんなに頑張っても1日は24時間しかないのだし、体力には限界があるのです。いくら残業ばかりこなしても給与は増えないし、簡単な問題ばかり解いても学力は身につかないのです。それを続けても伸びしろが無い状態なのに、現状と同じことを精神論で頑張ったところで結果が伴うはずがありません。大事なことは、走りながらも新しいギアを模索し続けることです。AT車は速度に応じて自動的にギアをシフトしてくれますが、私たちのギアは各自が適切な時期にシフトしなければいけません。言い方を換えれば、今までの考え方を一つ一つ検証し、見直したものはすぐに行動に移すことです。すべてのことを自分一人で抱え込めば、時間も体力も無くなります。これを脱するためには、自分と同等以上の能力をもった人間を自分の分身として育てたり、収入を不動産や株式からの配当利益など勤労以外からも得られるようにしていくことです。逆に、やるべきと考えていた無駄なことを少しずつやめていくことも、シフトです。保険の加入、テレビの視聴、そして義理の人間関係。常識と考えていたものが永遠に常識であるものとは限りません。いつまでも同じギアで引っ張り続けることはできません。自分が思うよりもリミッターは意外な場所にあったりするものです。ただしクルマのシフトとは異なり、いきなり結果は出ません。少しずつシフトしていきましょう。</content:encoded>
		<content:encoded>パートナーを選ぶときは、じっくりと吟味しましょう。昨年惜しまれつつ亡くなったスティーブジョブズ氏は、独特の審美眼を持っていたことで有名です。メルセデスベンツSL55AMG翻ってみれば、安いからと吟味せず手に入れては使わないままにしてみたり、無料サンプル欲しさに行列に並んで時間を浪費したり、あるいは自分の個人情報を提供している人がいます。なんでもいいから手に入ればいい、というのは物に対して少々失礼ではないでしょうか。人も物も、あなたの人生を手助けしてくれる良きパートナーです。つきあう相手の格が自分の格と考えてみましょう。高級ブランドを身につけていても職場の同僚や遊び仲間がそれなりでは、それだけの格でしかないことが多いです。いくら素敵な高級車に乗っていても、毎月の生活に追われるようでは分不相応だということです。もしあなたが、あなたに関わるすべての対象をパートナーとして意識したとき、たくさんの人に見せても恥ずかしくないような人や物を選ぶはずです。なぜなら格の異なる相手とつきあっても、居心地の悪さから関係が破綻するからです。その経験を繰り返し考えをあらためてみたのち、あなたはすべての相手や物に対して、一つ一つ吟味して取捨選択する過程を経るでしょう。結果として、自分の価値観のあったパートナーのみに囲まれることになります。安さで妥協したり、なんとなくの関係でしかつながっていないパートナーばかりを集めているのは、あなたに自信がない証拠です。不安だからと数だけ集めてみても所詮は寄せ集めでしかなく、永遠にあなたの心を満たしてはくれないでしょう。一つ一つの出会いをしっかりと吟味していきましょう。あなたがこれから出会うべきはどうでもいい相手ではなく、本当にいい相手であるはずです。</content:encoded>
		<content:encoded>初詣や七五三などでお守りを手にすることは、よくあると思います。そうしたお守りを勘違いして使ってはいませんか？ごくごくまれに、全国各地のお守りを貼り付けたクルマを見ることがあります。しかしお守りが多いからといって御利益があるわけではありません。お守りは御本尊の分身です。けして、厄除けアイテムではありません。御本尊をお預かりしているのですから、危険に晒さないようにしなければなりません。それが結果として「安全運転に努めなさい」という意味につながるのです。また、お守りは受けてから通常一年でお焚き上げをします。何年も同じお守りを使っているのでは、御本尊に関心が向いていないことを悟られてしまうからでしょう。いずれにせよ、お守りのあるなしに関わらず、常に誰かを乗せている気持ちで走らせてみてください。その気持ちが、本当の意味で厄除けにつながるのでしょう。物質であるお守りで厄を除けるのではなく、気持ちと行動で厄を除けていくのです。昨年思い通りだった人も、昨年思うようにいかなかった人も、今年1年が良い年になることを願ってやみません。</content:encoded>
</rdf:RDF>

