トップ > コラム > コラム No.795
 
トップ > コラム > コラム No.795

#795 / 2012.06.03

修行という名の自己満足

どんな場であれ自分を精進させる要素が1つくらいはあるものだと考えれば、何事も修行です。

クルマで言えば、こういったことが挙げられるかもしれません。

  • 信号待ちできっちり待つこと
  • たくさんの人の動きを読みながら自分がどう動くかを考え実践すること
  • 法規にしたがって行動できること
  • 同乗者や周囲の歩行者に気を配ること
  • 道に迷ったりパンク等のトラブルに見舞われたときにあわてないこと

挙げれば、きりがありません。

しかし私自身、修行という言葉が好きではありません。
けっして修行そのものを否定する訳ではなく、「修行」という言葉の響きの良さがときに勘違いを起こさせるからです。

人生修行、武者修行、あるいは花嫁修業に至るまで、修行とつく言葉は多いです。
しかしなぜその人が修行するのかなと考えたとき、誰のための修行かを都度確認してみる必要があるのではないでしょうか?

将来的に他人の役に立つために修行するのならわかります。
もし、自己満足の域を出ない修行であるのならば、「修行している自分に酔っている」だけの可能性があるかもしれませんし、いま置かれている苦しい状況を紛らわすために発した、一時しのぎの言葉かもしれません。

もちろん自己陶酔や逃避から発した言葉でもいいのです。
ただ、耳障りの良い「修行」の言葉でごまかしてしまうと、修行したつもりの自己満足で終わってしまうでしょう。

せめてその修行は誰のためなのか、あるいは何のためなのかといった目的を自分の中ではっきりさせておいたほうがいいです。
せっかく修行で人一倍苦労しても誰も喜ばないし自分も得るものが少ない、では結局、修行という名の自己満足にしかすぎません。

きれいな言葉の裏にある本質を考えてみよう。

サイト内リンク