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#748 / 2011.07.18

善と独善

どんなに贅沢なものであっても、要らないものはゴミです。

カーディーラーでフェアがあるとたいてい訪ねてしまう筆者ですが、主目的は愛車のメンテナンスと担当営業氏とのコミュニケーションをとるためだったりします。
そうしたフェアでなんらかの景品をいただいたりすることがありますが、私は時々辞退するときがあります。

いただけるものにケチをつけるわけではありませんが、正直いただいても使い道がないからです。

私自身、ものに囲まれた暮らしをしたいとは思っていません。
ものを持っているから偉いなんて価値観は、私にはありません。

ただ、それでも手に入れてしまうものは何かの縁です。

ネットオークションで知らない人に売り渡すのも申し訳ないですし、ずっと使わないままタンスの奥底で何十年も放置し続けるのもものに対してずいぶんと失礼な話です。
だから私の場合はむげに扱わず、捨てるかあげるかしてしまいます。
私のところで半永久的にとどめてしまうより、そのほうがものにとっても有意義なことではないかと思うからです。

贈られた側の気持ちを考えず、贈る側が一方的に贈ってしまうことがあります。

先の東日本大震災では、たくさんの物資援助やボランティア登録があったといいます。
しかし、その中には千羽鶴や着なくなった古着が贈られたり、食事や宿を用意してもらえていると勘違いしたボランティアも多数いたと言われています。

そういうことを批判するときまって「善意を踏みにじるのか」と反論されます。
しかし考えてみれば、それらは「善意」ではなく「独善」なのです。

食糧供給が止まり衛生や治安も失われつつあった震災直後、やっと届けられた1台のトラックから千羽鶴が出てきたら空腹の被災者達はひどく落胆するでしょう。
宿や食糧を被災者と一緒になって取り合っているボランティアがいたら、いったい何しに来たのかと激しくののしられるでしょう。

気持ちだけではお腹はふくれないし、何の救援にもならないのです。

「やってあげている」というのは、ひどく思慮が欠けた行動です。
行為を受ける側が嬉しいかどうかを考えることなく、行為する側が「善意」を押し売るのは、もはや善意でなく独善です。

なんとかしたいとする気持ちはわかります。
ですが、行動すればなんとかなるなんていうのは、お子様の論理でしかありません。

その行為が果たして需要があるのかどうか。
その行為を持続し続ける能力、資金、時間、方策、そして人員はいるのか。
一個人の力でなんでも解決できるなんて勘違いしていないか。

ちょっと冷静に考えればできるかどうか、またそれが求められているかどうかがわかるはずです。
深い考えもなしに衝動的な行動しか取れないことは、相手のみならず自分にも深く傷を負わせることになりかねません。

「やらないよりやった方がマシ」というのは一面の真理ではありますが、かといって「なんでもかんでもやればいい」わけではありません。
独りよがりな行為は、害悪を発するだけでしかありません。

何が求められて何が自分にはできるのかを、まずは見極めてください。

相手のためにできることを、自分の中でリスト化しておこう。

追記(2011.07.18記)

「力なき正義は偽善なり」
たとえ一人で息巻いても、それを実現できる術がなければ、傍観者と同じ。
偽善や独善にしないためにはそれなりの資源と客観性が必要だ、と私は思います。

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