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#701 / 2010.08.30

シタゲル・トーゼン

「私がしてあげる」
「してもらって当然」

なんでそんなに上から目線なのでしょう?

前者は見返り目的、
後者は権利主張の名を借りた無理強い。

どちらも自分主体でしか考えていません。
近視眼的でしかなく、他人を排除し続けていくのだから長期的には大きくマイナスです。

そういう人は、運転姿勢にもはっきりと現れるものです。
「わざわざ譲ってあげる」
「譲ってもらって当然」

あなたはそこまでの意識はしていないかもしれません。
でも、言葉の端々に恩着せがましさや打算を感じてしまい、そういう意識なんだと捉えられる可能性は充分あります。

「未来は現在の積み重ね」というか、「類は友を呼ぶ」というか。
打算で接してくる人には、呼んでもいないのに同類の人しか接してこないものです。

一つ一つのどうでもいいところで他人からの優越感を得たいくせに、実際には叶わずピリピリしてばかりいるのです。
それはそうでしょう。
他人より自分が得したいのに、さらに得したがる人間ばかりが集まって好き勝手に自己主張されれば、心休まる時なんてないでしょうね。

あなたに寄って来る人間。
彼らはいわばあなたの映しであって、あなたの積み重ねた人生を可視できる存在です。
彼らを見れば、あなたがどう見られどう思われているかを如実に知ることができるでしょう。

公道は、あなた一人で走っているわけではありません。
それは生きることも一緒です。
我を通すということは、世間とは違う道を走らねばならないということです。

何かを成すならば、それも大事でしょう。
でもそれは、信念というバックボーンがあるからできることです。
単に自分がおいしい思いをしたい欲得心がそうさせるだけならやめたほうがいいです。あとでつらくなるだけです。

自分が俗物だからこそ、たいしたことのない行為をわざわざ大上段からに見せかけるし、浅ましく権利を要求するのです。

してもらったり、してあげたこと。
それらの行為に、いったいどれほどの意味があるというのでしょうか?

行為の裏にある本音を、相手に悟られないようにしよう。

追記(2011.11.02記)

文体を変更しました。

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