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#504 / 2007.03.04

冥想SA

とある高速道のサービスエリア。
さまざまな写真が所狭しと貼られています。

しかし、見たい写真は1枚もありません。
なぜならそれらは、すべて無残な姿のクルマ達が写された写真なのです。

横転してしまったもの。
黒焦げになってしまったもの。
ボンネットが原形をとどめていないもの。

事故直前まで自動車の形状をしていたそれらは、もはや鉄の塊でした。


見たくなくとも、見なければいけない現実があります。

クルマが「殺傷能力も持つ鉄の塊」である以上、死亡事故はつねに付きまといます。
クルマで人を殺してしまうこともあるかもしれないし、 あるいはクルマで殺されてしまうこともあるかもしれません。

ここで少し、死について考えてみたいと思います。

まず私は、もちろん死んだ経験もないし、幸いにも大事故に遭遇したことがありません。
生後3ヶ月で腸重責にかかり死の淵をさまよった経験がありますが、まったく記憶がないのです。
ただ自分の腹にしっかりと残る手術痕が、三途の川を渡りかけた事実を物語るのみです。
だから先に言っておくと、私の言葉で死を語るには足りないかもしれません。

私にとって、死とは以下の3つだと考えています。

「淡々としたもの」
「やりなおしのきかないもの」
「いつ迎えてもいいようにしておくもの」


まず、死は淡々としたものだと考えています。

人の死は、確かに悲しいものです。
ですが、その記憶はいつか風化していきます。

例えばあなたの身内が10年前に亡くなったとして、それでも毎日欠かさず覚えていられますか?

私は、きっとできません。
仏前では思い出せても、「本当に片時も忘れずにいる」なんてことはできません。

短期の記憶は、長期の時間では薄れていくものです。

永い年月の中でたくさんの命が生まれ、そして消えていく。
悠久の時間軸において、死は1つのイベントにすぎません。

冷たいようですが、人の死だけにとらわれていては永遠に前へは進めません。
そう考えると、結果的に死は淡々としたものになるのではないかと思うのです。


かといって人が死ぬことは、大変寂しいことです。

もしかしたら来世、違った形で生まれ変われるのかもしれませんが、 今この時代から存在自体が消えてしまうことには変わりありません。

ここで、興味深いデータがあります。

2004年6月、長崎県佐世保市で小6女児殺害事件が発生しました。
それをうけ同県教委が県内の小中学生約3,600人に「生と死」について意識調査を行ないました。
すると全体の15.4%、約560人が「死んだ人が生き返る」と回答しました。

つまり1割強の人間は「死はやり直すことができる」と信じているわけです。
この調査から2年以上経っているとはいえ、今も少なからず「やり直せる派」は存在するでしょう。
さらに全国規模で見てどれだけの人がいるのかと考えると、たいへん恐ろしいです。

死は、やり直せません。

安易な殺人が多くはびこる時代になってしまったのは、 仮想と現実の区別がつかない人が増えたことが一因です。
いうなれば、死に対して軽々しい意識しか持っていないのです。

リセットボタンや復活の呪文は、どこにもありません。

バーチャルとリアルは別物です。
レースゲームがうまいからといって、実際の運転がうまいとは限りません。
同じようにテレビや映画で人が生き返るように、現実世界で人が生き返ったためしはありますか?
バーチャルは所詮バーチャルなのです。

なかにはこうしたメディアに毒されたせいで死の意識が持てないから、などと言われます。
一見正論ですが、ただの言い訳です。

最近の情報番組捏造問題で日本人は1つの呪縛から解放されました。
メディアがいつも真実であるとは限らないのです。
メディアだって嘘をつくのですから、何も考えずにメディアを鵜呑みにするほうが悪いのです。


死は淡々とやってきて、しかもやり直せないものです。

そもそも、人間いつ死ぬのかなんてわかりません。
死亡時刻がわかったとしても、直前にできることは限られています。

まったく死を意識していない今のうちから、やるべきことはやっておくべきです。
また、無駄に死を引き起こさないように、安全運転に努めることです。

生きている以上、死はいつだって紙一重なのです。

死の準備をしよう。死を引き寄せないようにしよう。

追記(2007.03.04記)

最期の日、私は最終コラムを書き、苗木を植えるんじゃないかなぁ。
次の世代のために、言葉と緑を残したいね。

追記(2011.11.02記)

文体を変更しました。

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