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#433 / 2005.11.12

デスペレイタR

破壊衝動に駆られることが、ままあります。

絶望に陥っていても、遮二無二走らざるを得ないときがあります。

現実は待ったなしで、執拗に自分を追い立てるものです。

助けが欲しいときほど、支援は得られません。

想像以上に、他人は非情です。

その非情さに、自分の命すら投げ出してしまいたくなります。

このまま自分が消えてしまったら、どんなに楽なことでしょうか。


気持ちはわかります。

でも、そこで希望を失いますか?

「絶望」なんて言葉が使えるのは、本当に絶望したことのない人だけです。
本当の絶望に陥ったら、言葉すら出なくなります。

命を絶ってはいけません。
抱えているものがある限り、おいそれと敗北宣言なんてできません。

死んで詫びるなんて言葉がありますが、それはただの幻想です。
死ぬことは「責任をとること」なんかではありません。
それは「責任放棄」というのです。

未来永劫、あの人は責任放棄しましたなんて言われてしまう、そんな恥ずかしいマネができましょうか。
だから、死にたくても死ねないのです。
それが現実です。

これはきついです。
「止める」という選択肢を、みずから捨てているのですから。
まさにブレーキのないクルマに乗っているようなものです。

けれど、絶望しなくてもいいです。
こういうときこそ、逆に考えてください。
アクセルを踏むことしか許されていないのなら、 ペダルが抜けてしまうぐらい、アクセルを踏んでいけばいいのです。

適当なスピードで躊躇するから吹っ切れられないのです。
ならば、圧倒的に踏んでいきましょう。
そうすれば、小さな障害なんかどうでもよくなります。

止まれなくなったら?
違います。止まることを考えるから、雑念にとらわれてしまうのです。

自爆したら?
それも違います。やれるだけやって燃え尽きられれば上等でしょう。
中途半端にグズグズとらわれているのは、絶対に楽しくありません。

おそれて何もできなくなることが、一番つらい生き方ではないですか?

クルマを初めてぶつけると、ものすごくへこみます。
2回目でもそう。
でも数回ぶつけてしまえば、もうどうでもよくなってくるものです。

大半の人は、数回ぶつけてしまう前にあきらめているのです。

生きていくことに綺麗事なんかないのです。
だからボロボロ。
いつだって死に物狂いです。

でも、それでいいのです。
無傷で生きている人なんて、この世にはいないのですから。

走れ。
ただ走れ。

今の自分に絶望したら、全力で走りこんでみましょう。
まだまだ君は、やり足りないことだらけですよ。

希望を信じよう。

追記(2005.11.12記)

絶望という言葉が、希望をより見えなくしてしまっているだけにすぎません。
希望は近くに隠れています。
見えるかどうかは、あなた次第です。

追記(2011.11.02記)

文体を変更しました。

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