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#377 / 2004.11.07

ドライビング性善悪

「ドライバーは人間です。人間であるがゆえに、利己的な本性を持っているものです。」

駐車場が遠いからと、傍若無人に路駐するあなた。
信号が赤になる直前だってのに、確信犯的に突っ込んでくるあなた。
隣の車線がなくなるって分かってるのに、割り込ませまいと必死にブロックしてくるあなた。

人間なんて、一番かわいいのは自分なのです。
だから人間は、自分にとって一番利益のある選択肢を選んでいくのです。

すべてでないにせよ、世の人間はだいたいそうです。

ドライビングに限りません。
職場や学校にいけば、わがままで怠惰で、思いっきり眉をしかめたくなるような人間ばかりです。
そういった人達とうまくやりあいながら、時には悪い部分を正しながら、どう付き合っていくかが大事です。


「ドライバーは人間です。人間であるがゆえに、思いやりの気持ちを持っているものです。」

速い後続車や緊急車両のために、スッと道をあけるあなた。
相手の後ろにクルマが詰まっていることを見抜いて、パッシングで道を譲るあなた。
歩行者の行きかう狭い道で、これでもかというくらい減速して歩行者にぶつからないようにしたあなた。

人間は、基本的に良識と善意で生きています。
だから人間は、声にならない相手の望みを叶えようとするものです。

すべてでないにせよ、世の人間はだいたいそうです。

ドライビングに限りません。
世の中を広く見てみれば、地域や人種を越えて相手を慈しむ人達ばかりです。
そういった人達とうまくやりあいながら、自分もどれだけ相手を考えていけるか、どう付き合っていくかが大事です。


性悪説と性善説。

生きていくうえで、人間てのは良い生き物か悪い生き物かと考えてしまうことがあります。
理想を言えば良い生き物といきたいところですが、どうも現実はそうではありません。

興味本位や転売目的で車両盗難を起こす犯罪者。
息子や娘と称しては交通事故を起こしたと偽り、多額の現金を騙し取ろうとする犯罪者。
性善説を唱えるにしては、現実はあまりにも悪がはびこっています。

しかしながら、善人もたくさんいることもまた事実です。
だから、単純に性善説や性悪説を掲げることはできません。

1つ分かっているのは、「いいドライバーもいれば悪いドライバーもいる」ということです。

どちらか一方の人間だけしかいないわけではありません。
善悪含め、どちらもいるわけです。

性善説/性悪説に限りませんが、単純に、二元論化できないこともあります。

よく物事を突きつけて、イエスかノーかを迫る人がいます。
この手の人は、決断は速いでしょうが、結果的には一番遅い人です。

イエスかノーと回答したプロセスをまったく見ないままに推し進めようとすることで、 間違った見方や考え方のまま突っ走ってしまうから、あとで手戻りが出てしまう。
あるいは、根本的に質問自体が的外れだったりするので、回答側が回答に困ってしまう。
そこをさらに畳み掛けるように間違ったほうに質問していくから、まともな回答から遠ざかってしまうのです。

結局、二元論者と一緒だと、ぎくしゃくしてしまうから思うように進まないのです。

これは、アクセルと同じです。

踏み方で言えば、全開のフルスロットルもあれば、まったく踏んでいないアクセルオフもあります。
でももう1つ、軽く踏んでいるパーシャルスロットル状態もあるわけです。
フルスロットルを1、アクセルオフを0だとしたら、0.3とか0.5で踏んでいる状態です。

二元論者には、このパーシャルスロットルが分かっていないのです。
だから発進時でもなんでも、フルスロットルしてしまいます。
当然、ギアがあってないからギクシャクしてしまうのです。

まさに、これと同じ考えです。
クルマがなかなか動かないばかりでなく、大事なギアすら傷めているのです。
それと同じで、単純にイエス・ノーでは量れないこともあるのです。

大事なことは、イエスもノーも自分の中で受け止められるようになることです。
その証拠に、人間関係というギアだって、パーシャルスロットルで繋ぐと丁度いいのです。

善も悪も、受け入れよう。

追記(2011.11.02記)

文体を変更しました。

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