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#289 / 2003.08.28

存在価値

強いストレスが、人を押しつぶします。

例えば、毎日遅くまで勤めている人だけがストレスを抱えているかのようなイメージがあります。
勤め人でなくとも、塾やら研究室やらで朝から晩まで勉強している学生さんでも構いません。
はたから見れば、休む暇がないからさぞや疲れているんだろうと考えてしまいがちです。
しかし本人はストレスなど感じず、かえって充実していることが多いです。

ストレスは、むしろ閑職者に多いのです。

閑職者は、常に無言のプレッシャーを感じて生きています。

自分の居場所はここでいいのか。
自分は必要とされていないんじゃないか。
自分は穀つぶしだと思われているんじゃないか。

自分の存在価値について、常に自問しているのです。
相手はそう思っていなくとも、自分としては被害者的に妄想してしまうのです。
そして自信が持てないから、否定的な結論ばかりを考えてしまいます。

後ろ向き思考になっているから、堂堂巡りしてしまうのです。
これは、悪循環です。

私も一時期、閑職者でした。
勤めていないというわけではなくて、勤めているけど仕事がまったく無いという状態です。
その期間は、およそ半年近くです。

仕事を見つけてこようにも、技術が無ければ通用しない世界。
そもそもお客様自体が、資金的に潤っていない状況。
でもこんなことは、どこでも誰でも直面している問題だと思うのです。

結局、別な仕事をやりたいと強く言ったのが奏効したのか、部署を異動しました。

自分が求められていないと思ってしまうと、自分の存在価値について考えてしまうわけです。
病気になって初めて健康のありがたみが分かるように、強いストレスを受けることで自分の存在価値を問い直すのです。

人は生き続ける限り、存在価値を確認しなければ生きていけないのです。

自分に自信がないと、人は自分の存在価値を低く考えてしまいがちです。
「いいんだ、どうせ」と卑下するひとは、自分に自信が無い人です。

ここからは、私個人の考えです。

私は、「生まれてきたものは何がしかの存在価値があるのだ」と考えます。
1人の人間にも、1体の生物にも、1個の物にも。
もちろん1台のクルマにも、です。
あらゆるものに存在価値が宿るのです。

まさに、八百萬(やおよろず)の神あり、です。

でも、例外はあります。
殺人者や、人の道をはずした者にまで、存在価値は見出す気はありません。
なんでもかんでも存在価値を見出そう、なんていうのは偽善的で思い上がりもはなはだしいところです。
こういうと「服役囚人の立場は?!」などと突っかかってくる人がいますが、 悪事をはたらいて捕まっておいて、一丁前に救いだけは求める図々しさに存在価値などいらないでしょう。
弱者平等主義だったり偽善番組で涙するようなエセ人権屋なんかに、興味はありません。

そうではなくて、「人の道をはずさないで生きているだけでも十分に御の字じゃないか」と思うのです。

これから、何かを大成していけばいいのです。
そのためには、まず生きていることが必要です。
存在価値は、その生きる過程でちょっとずつ築いていけばいい、それだけのことです。

何を築いていくかは、その人次第です。
築くというと大層なイメージがありますが、できることを続けていけばいいだけです。
だから、無理に背伸びして気負わなくても、築くことはできます。

一面的な優劣で、存在価値は決まりません。

ある一面から見たときに他者から劣っているといっても、すべてを否定されたわけではないのです。
別な角度から見れば、これは自分にしかできないねといったこともあるのです。

例えば、大衆車カローラと高級車セルシオとを比べたとします。
木目調インパネに革張りシートのインテリア、大排気量エンジン、恐るべき静粛性を持ったボディ。
大抵はカローラより、これらを持つセルシオに存在価値があるような気がします。

ところが別の人から見れば、もてあまし気味の大きなボディ、高燃費、防犯対策の必要性など、 セルシオを所有する大変さも併せ持つことになります。
ならば、小柄で低燃費なカローラがいいねということになりうるのです。
この人から見れば、小柄で低燃費でいいということがカローラの存在価値になるのです。

存在価値というのは、実に多様なものです。
ある人にとっては価値があっても、他人にはどうでもよかったりするものです。
ベンツやBMWに乗ったからといって、急激に女の子からモテるとは限らないようなものです。

つまり世間一般で「あなたは存在価値がある」と謳われていても、 それは謳われている側の自己満足でしかなかったりするわけです。
その他大多数にとって、あなたの存在はどうでもよかったりするのです。

存在価値というものは、絶対的なものではありません。

そう考えると、自分の存在価値をみずから低く見てしまうことは、実に無意味なのです。
他人の基準で最低最悪だからといって、それを自分の存在価値としてしまうのは、早計です。
自分の基準で最高の存在価値を築いていけば、結果として、他人を凌駕することにつながります。

他人の基準なんて、どうでもいいのです。
相手の評価にいじけているくらいなら、違う分野で見返してやろう、ということです。

自信を取り戻そう。

追記(2011.11.02記)

文体を変更しました。

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